昭和48年05月12日 朝の御理解
御理解 第44節
「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」
沢山の人が信心を致しておりますが、本当に神になり、神にまつられる事を楽しみに信心しておる人が、どのくらいあるだろうか。私はここのところが、楽しみで信心しておる信心でなからなければ、信心の値打ちはないと思う。どうでしょう皆さん。死したる後、神になり、神にまつられる事を楽しみに信心せよと。ですからそれを楽しみに信心するという事なんです。
私はお道の信心はそうだと思うです。だからまず私自身は、神になり神にまつられる事を楽しみに信心しておるだろうか。おかげを頂く事を楽しみに信心しよるとです。お参りしてから、御理解を頂く事が楽しみですと、只楽しみの焦点がです、違うてはならんのです。成程お参りをする事もお話を拝聴する事も。それはどこまでも、神になり神にまつられと言う様な願いが焦点でなからなければならない。
それをわが心が神に向かうのを信心というのじゃと仰っておられます。自分の心が神に向かうて、一歩々近づいてゆくと言う事が信心じゃと仰る。ですからそんなら金光様の信心をしておれば、誰でも神にまつられるという事じゃない。そういう願いの元に、信心を進めておる人ならば、私は必ず神になり、神にまつられると思うです。だから信心の根本のところを把握して、そして信心は、しっかりさせて貰わなければならないんだという事がわかります。
神にまつられ、神になるという事を楽しみに、信心せよと仰るのですから。ですから自分の心がです、それこそ一歩ずつでも良いから、神様の方へ姿勢を向けて、一歩ずつでも、わが心が神に近づいてゆくという事は、どういう事かと言うと、信心は本心の玉を研くものぞや。信心は日々の改まりが第一ぞと仰る。もう私共がです魂の清まりを願い求めて、私共が信心とは本心の玉を研くものだ、日々の改まりが、第一だという生き方なんです。様々な問題を通して、改まらせてもらう事がある。
様々な問題を通してその問題を砥石として、心を研いてゆくという、そういう生き方です。ですから光り輝くようにならなければとか、神様の位をこの世で頂いておかなけれは、神にまつられないと言う事ではない。わが心が神に向いておればいいのである。いうならば神にまつられ、神になる事を楽しみに信心しておれば、神にまつられると言う事になる。ですからどうでもここん所に焦点を置かなければいけない。
狐狸でさえ、神にまつられると言うことを喜ぶというではないかと。人間は万物の霊長なればとこう仰っておられる。人間は誰しも万物の霊長だとこう言うのですけれども、霊長ではあっても、霊長の値打ちがなかったら霊長ではないです。そうでしょう万物の霊長としての値打ちを発揮するから、万物の霊長としていうなら、様々な動物の上に立つというかそれこそ、犬猫にも劣ったと言う様な、人間の風上にも置けないと言うでしょう。人間のいわば万物の霊長であると言う事は、私共の霊長である所の霊徳というものがです、大体あるのです。霊性というものがあるのです。
だからその霊性が、信心によって、わが心が神に向かうて行く信心、いわば神になり、神にまつられる事を楽しみの信心をさせて頂いておるとです。心が段々清まってくる。そして霊性というものが非常に高まってくる。いうなら霊感が強うなってくるです。例えば冷血動物といわれる、蛇とか蛙ですら、降る照るの事がわかるというではないか。まして人間は万物の霊長でありながら、降る照るの事ひとつわからんようではどうするかと言う様な意味の御理解を、昔頂いた事があるです。
私は、降る照るの事がわかる。神様が教えて下さる。これは霊性が段々清まっていきよるからです。わかるどころではない。それこそ、降るものでも降らんように、照らなければならん時は、照るようなおかげですら頂く事が出来るのです。いわゆる、天地が自由になるいう程しのおかげを頂いていく事が出来る。それは万物の霊長でなからなければ、それを表す事は出来ない。蛇なんかが、高上がりする時には、大水が入るというでしょう。それはひとつの霊性というものを発揮してるわけですよ。
それを私共がです。人間は万物の霊長だと言うておるだけであって、その霊性というものが、我情我欲、様々な、ありとあらゆる悪をもって包んでしもうておる。そういう垢がついてるもんですから、霊性の出ようがなくなっておる。人間の我情我欲で、霊性のいわば、霊光が輝くものを霊光を塞いでしまってかぶせてしまっておる様なもんじゃ。だから信心とは、それを取り除いていく事が信心だと言うてもいいわけです。
神様が、持って生まれた時からです、神様の分け御霊として、私共人間を、氏子とまで呼んで下さる。本当に私は、氏子だと思うです、分け御霊だと思うです。いうなら神の分身なんです。氏子だと思うです、分け御霊だと思うです。いうなら、神様の分身なのです。ですから、私共が、神様になろうという気になって精進すりゃ、神様になれるのです。犬やら猫が、いくら精進したって、神や仏にはなられしません。人間だから、万物の霊長だからなれるのです。
だから願いの所をですひとつ神になり、神にまつられる事を楽しみに、いうなら自分の心が段々有難うなってきて、本当にたまには自分で自分の心が拝みたいごと成って来る。それを楽しみに信心すると言う事なんです。そういう生き方ならば必ず神になり、神につまられる所。そういう例えば心の状態をもって、お国替えをさせて貰うたら、お国替えさせて頂いても、やはりその信心修行を続けるから神になって行く訳です。
それを知らない御霊ですよ、仏教的にいうならば、地獄に落ちなければならんと言う事になるのです。大変な事大事な事なんです。同時に万物の霊長としての値打ちというのはです。人間は誰しも良心を持っておると言う事が、他の動物との違いです。他の動物やらには、良心というものは無いと思います。但し人間には良心がある。だから万物の霊長だと言われる由縁です。ですから例えばあちらのお店は、中々良心的だと言う様な店なら、必ず信用がついて繁昌致します。あちらの店は実に非良心的だ。
あちらの商品は、中々非良心的な商品だというのは、必ず信用落としてそれは没落してゆくより他にはありません。ですから私共がですまず良心的にならにゃいけません。それが、愈々限りなく美しゅうならせて頂こう。愈々豊かな心にならせて頂こうと言う様な精進をしよらんとです、非良心的な事をしておっても、それを非良心的な事とすらも言わんようになり思わんようになるです。いうならば性が変わってくるです。
福岡の吉木先生が、よう仰っておった。人間が我情我欲で固まってくるとです、例えばタオルが煮しめたように汚れる。それを洗いもせんでおると、その垢から性がなくなってくる、性が変わってくる変わってくる。「あら、これは性の変わっとるたい、びりびり破れるごとなっとる」と言うでしょう。人間でもそうです。本当にあの人は人面獣心。人間の面しちょるけれども、心は鬼のごたる人夜叉のごたる人だと言う様なのはです。いうならば、汚れに汚れて性が変わっとるとです。
人間の性から犬猫にも劣るような性に変わってしもうとるです。ですから信心とは、そこの所からです、神様に頂いておる所の分け御霊であると同時に、魂を愈々大事にしていくという稽古をさせてもらう。だか、大体は、ここにあるのがひとつの霊光とでも申しましょうか。万物の霊長としての資格、値打ちというものが輝き出してくる。それを霊徳とこう言う。悪い事をすると、良心の呵責と申しますね。
所が悪い事をしてもです、良心の呵責も何も無いようなのがありますよね。例えば石川五衛門の話があります。日本一の大泥棒だと言われるような人だ。けれども悪い事という事を、全然考えてない。もう良心が麻痺してしまってる。心の無い者と同じ。だからある意味で、いつも良心の呵責なんかに苦しまない。死んだげなら極楽に行く一歩手前で、地獄に行ったという話がある。死んでからずっと閻魔様の前に行きよった。
そしたら前を通りよった婆さんが、南無阿弥陀仏の袋のこういう大きかつを担うて行きよんなさる。「ほう、あの人は、あげん沢山、南無阿弥陀仏持っちゃるけん、違わん極楽へ行くとじゃろう」と、石川五衛門が思うたという訳。石川五衛門はほんな、細まかつをいっちょしか持たん。こげな事では地獄に行かにゃんかも知れんけんと思うちから、婆さん、ああた重かろうけんで、私が持ってやろうち、私がつば持たんの、私があんたがつば、抱えて行ってやろうち言うちから、抱えちから交換してもらった。
そして閻魔さんの前で、いかにもこの南無阿弥陀仏が私のつでございますと言わんばっかりして出したというわけです。所が「これは空念仏じゃけ地獄」ち言わっしゃった、閻魔さんが。婆さんのつは、空念仏じゃたげな。所が石川五衛門な、それこそ一生に一度に一遍、本当の南無阿弥陀仏と言いよったげなけん、それは小さかったばってん、ほんな南無阿弥陀仏じゃったらしいんです。だから本当いうなら婆さんな、だからお前はほんな南無阿弥陀仏じゃけん極楽行きと言わっしゃった。
だから死んでから先でも泥棒気があったわけです。結局はやっぱ押さえられた。これはそう言う事があるんです。これは実に今日の御理解から言うと、うがった話なんですよ。だから、悪人に徹してしまってですね、良心の呵責やらがなかったら、極楽行きが出来るかもしれんです。ところが、天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があるでしょう。例えば法則というものがありますよ。人間の世界にもありますように、天地にも法則というものがあるんです。
だから法則の裏ばっかりくぐっていくような信心すらがあるくらいですから。例えば法学の勉強なんかをした人は、法学の裏をいって悪い事をして、引掛らん様な手だてがあるのですよね。ちゃんと抜け道を作ってる訳です。だからそんなら警察なら警察力をもってしても、どうしても押さえられんわけです。あん奴はあげな悪い事をしよるけれども、押さえられんのです。信心でもそ言う所があるんですよ。
何時でしたかあるお婆ちゃんが大変熱心に信心しとる。息子はもう悪い事ばっしりしておる。私がお夢を頂いたのが、その息子さんがです、警察から追われて来た。丁度、橋の上に来たもんだから、仕方ないから川の中に飛び込んだんです。その息子さんが。そしたらその人のお母さんがね「金光様助けて下さい、金光様助けて下さい」と、一生懸命橋の上で拝みよる。そしたら警察の人が母親に免じてから、逮捕するまいというお夢を頂いた事があるです。母親の信心に免じてです。
例えばそういう悪人でも、もう捕まえまいという訳ですけれどもどうでしょう。その頼むお母さんが亡くなったら、すぐ捕まえられた。頼むもんがある間です。この事は、も少し勉強すると、色々大変面白い話があるのですよ。自分の心の呵責、それが難儀を呼ぶわけです。ところが信心させて頂いておると、それとは反対にです。良心的になって参りますし、その自分の良心的であることを、自分で自分の心を拝みたいごとなってくるのですから、その反対になってゆくはずなんです。
昨日私午後の奉仕をしておる時、ある方が参って来た。ここ二三日心の中に引掛り通し、先生実はと言うてある懺悔です。私はそれを聞かせて頂いて、そげな事してそげな事言うちからと思うた。けれどもどうしても良心の呵責、苦しいお詫びをしてもお詫びをしても、お詫びが叶うたごたる気色がせん。それでこれはお取次頂かにゃというて、お取次を頂いたわけです。そしてその事をお取次させて貰いよりましたらね、神様から堤防のごたるところに、この位ばっかり、穴がほげとるところを頂くです。
そしてそこに水が、ショロショロショロショロと入って行くんです。モグラの穴のごたる所にですね。ははぁ私は思うたです、蟻の一穴から堤の堤防でも切れると言われるです。蟻の一穴というのは、蟻が出入りするぐらいな小さい穴であってもです。そこから油断をしておると水が入って、そこから堤防が決壊するわけです。そう言う事になるです。私共がこの位の事じゃから、よかよかと言う様なね、これ程しの事だからもうよかよかで行く様な所からです。そこに窪みが出来るです。
その窪みにおかげが入って行きますと、却ってそのおかげによって、その堤防が崩れてしまうと言った様な、一大事になって来る訳です。私はその事を伝えさせて頂いて、ああよかったねまあこのくらいの時にね、お詫びさせて頂いて。私共が何気なしに心ない事をさせて頂いてです。心に引掛かりながらもそれを引掛かり、引掛かりして行きよるとです。どういうおかげを頂いておっても、それがいつの間にかずうっと水が流れて行くに従って穴がほげてから、そこから堤防やら土手が切れてしまう様な事になる。
という話を伝えさせて頂いたら、「おかげ頂きましたぁ。」という訳です。もう本当に、こういう有難い御理解を頂いて、おかげでという意味なんです。ほんにこのまま放っといたら、どういう大事になっておったか分からなかった所を、今日は本当に恥ずかしい話だけれども、親先生にお取次させて頂いたら、こういうおかげ頂いて有難かったという。「おかげ頂きましたぁ」とここで言うた途端にね、私が今御心眼に頂いておった、泥のくぼみのところが、又泥でうまってしまうところを頂きましたよ。
この神様は確かに有難いというものに弱いですね。もう真に有難い思う心、直ぐに霊験のはじめと仰るから、どう言う所に、ああ本当にこういうお粗末、御無礼な事をしておった。そう言う事がお話を頂くと、大変な元を作っていく元にもなりかねない所を、お取次頂いておかげ頂いたら、こういう大変な御理解を頂いて、これからはこう言う事はせんという心に決めた。そういう有難い御理解を頂いた事が有難かった。
「有難とうございましたぁ」と言うた途端にこれが。だからいかにね詫びれば許してやりたいのが親心という、その詫びる事によって、例えば私共はいつもこんな事がありましょうけれども。それを元通りにして頂くというか。又は改まって、真に有難いという心で、そういうお粗末御無礼をカバーしてゆくというか、防いでゆくというおかげを頂かねばならんと言う事が解りますですね。
これなんかは、今日の御理解から言うと、人間は万物の霊長であるから、三日間その人は心の呵責に苦しんだわけです。これは人間だからです。ここの所を教祖様は、不浄穢れはわが心で払うこともあれは、受ける事もある仰るです。信心の素晴らしい事はそこです。例えばどういう不浄な事があってもです、そこに教えを頂く事によってお詫びをする。お詫びをしたり、お礼を申し上げたりする。
そう言う事によってです、今まで心の呵責に苦しめられておったのが、反対に有難いと言う事になれるのも、これは信心を頂いておる者でなければ頂ける事じゃないです。そういう事が出来るのが、万物の霊長の値打ちであり、そういう事が出来るが、信心を頂いておる者の値打ちなんです。ですからそういうおかげを頂いて行かなければならない。それが人間は万物の霊長であるからというのはです、そのようにして万物の霊長としての値打ちを、愈々作っていく高めていくという生き方。
そして信心の願目というものがです、死したる後神になり、神にまつられる事を楽しみに信心させて貰わなければならないという事。自分で自分の心が段々有難とうなっていく事を、いうならばそれが楽しみの信心でなからにゃいかんです。おかげを受ける事が楽しみという信心でです。いうなら御利益信心、悲しい時の神頼みと言った様な信心では、いくら金光様の信心しておっても、死したる後神になり、神にまつられると言う事は出ん。神になり神にまつられる事を楽しみの信心。
そういう楽しみの信心を、目当て目指しにしてのおかげという事を聞いて頂いたですね。また万物の霊長であるという事の、値打ちを作っていく事が信心だと思う。所が私共はです、ときたまそれこそ、良心の呵責に苦しむような事もあるけれども。そこは詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから、お詫びをする、改まらせて貰うと言う事によってです。そういう例えばくぼみが出来ておる所がまた元通りに。許してやりたいのが親心なのだから、そういう神様を頂きながら、楽しみの信心をさせて頂く訳ですね。
どうぞ。